豊原国周論考 追補

1852年から1870年まで、豊原国周を名乗るまでの画姓変遷、年玉印以外の落款、大首絵、大顔絵、ミディアムショットなどの構図、感情表現、誇張と省略の漫画、ストーリテーラーなどを論じた。ここには追加で検討している事項を示す。内容次第で本文を書き換えることになる。

<豊原国周は、サブカルチャー浮世絵師だった。>

 浮世絵は世界中にひろまり、アメリカ、イギリス、フランスなどの多くの美術館に保管されている。世界中で保管されている浮世絵枚数の多い順は、国貞(豊国III)は27000枚でトップ、広重は11000枚、次いで3番目に多い国周は10000枚、国芳は4000枚だった。この保管枚数は当時の人気の証だと考えている。もともと役者絵などは芸術作品として制作された物ではなく、浮世絵を通じて歌舞伎芝居なども伝える印刷物だった。岩田秀行らも浮世絵は通俗メディアだったという認識になってきたと述べている。(岩田秀行、小池章太郎共著 役者絵の図像学 錦絵八犬伝を読む (株)文学通信 2024年)。浮世絵は芸術作品として評価された作品があった。その流れで、国周の作品の中にも芸術作品として評価される物があるかという流れで研究されたが、結果として粗製濫造した豊国の流れをくんだ絵師だった程度の評価でおわっていた。

私の評価は、次のような評価である。 彼はサブカルチャーとしての歌舞伎役者絵を描いていた、さらに、その描き方は現代の映像技術と同じ以上のレベルに達していて、歌舞伎のおもしろさを庶民に伝えていた。

<国周は何歳で豊国IIIに師事したのか?>

現在広く支持されているのは、明治三十一年(1898年)の読売新聞の連載記事「明治の江戸児」に記載されたインタビュー記事を紹介しながら森は「国周とその生活」(文献17、浮世絵芸術第20号p20-25、1969年)に「わたしも押し絵をやってみようというので、一遊斎近信の弟子になったが、全くこれが手ほどきで、それから二代目豊国の弟子になった。。。豊国は田舎源氏の挿絵を描いて、名人と俗に言われた男だが、わたしはちょうど十七年間、そこで修業した。」と言った記事をベースに、「豊国IIIの死亡年(元治元年1864年)から逆算して嘉永元年に、十四歳で豊国IIIに入門したのであろうか。そうすると豊国IIIの没する元治元年まで、十七年就いていたことになる。」と推定で発表している。本人の話を元にしていることから、現在は「14歳で入門した」として考えられている。この説の強みは、1898年の本人の話が基本にあることだが、結局推定だ。

二つ目は、関根は(関根只誠 歌川国周 浮世絵百家伝 p121 六合館 1926年)、「十五歳にして一遊斎近信(俗称鳥山新二)の門に入り、勝信と称して羽子板の押絵に俳優の似顔を写す事巧みなりしが、十七歳の時、人の勧めに従って三代豊国の弟子となり。。。」と述べている。小島鳥水も同じように、「一説に十五歳で、一遊斎近信(俗称鳥山新二)の門に入り、勝信と称して、羽子板の押絵に、俳優似顔の原画を製していたという。人の勧めに従って、十七歳の時三代豊国に入門して、。。。」と述べている。(再び国周の事ども 浮世絵志 6(23)p2-7 芸艸堂 1930-11)。小島鳥水の文章は関根只誠の文章に似ているので、引用のように思える。関根の記述はしっかりした根拠がありそうで、国周の死後25年後の1925年と早い時期であるので確かな印象もあるが、文章は「一説に。。。」とあり根拠に曖昧な点があることが弱みだ。

<豊国III 以前の師匠は誰か?>

何歳で豊国IIIの門に入ったのかという議論だが、豊国IIIに師事する前の師匠は誰かという疑問だ。国周が豊国IIIの前に師事した師匠の名前が、いくつか文献に出てくる。豊原周信、一遊斎近信、鳥山新二、隣春など。 

1884年の明治画家略伝の豊原国周の項(豊原国周 渡辺祥次郎 (祥霞) 編ほか. 明治画家略伝 p64, 鴻盟社等,1884)に、「長谷川 豊原国周 下谷区仲徒町三丁目四十七番地 人物 荒川八十八ト称シ一鶯齋ト号ス 天保六年六月五日生ル 父ヲ九十ト云フ 画ヲ豊原周信及豊国ニ学フ」の記載がある。

1925年 関根只誠は、「四日市に隣春(ちかはる)という羽子板師の弟子に。。」、「一説に十五歳で一遊斎近信(俗称鳥山新二)に入門し。。」と述べている。1931年に小島鳥水も江戸末期の浮世絵の中 国周のところで、同じ事を述べている。

1884年、国周が存命の時に羽子板師の師匠は「豊原周信」と言われていたのに、国周死後25年たって、何らかの根拠があったのか、関口は「一説に」と断りを入れてはいるが、「一遊斎近信」、「鳥山新二」という名前を報告している。国周が、「豊原」を名乗っていることから、豊国IIIの前に師事したのは豊原周信と考えることで整理がつく。

以上の事から、確からしい情報をまとめると、「八十八は羽子板の絵師豊原周信の所で修業し、14歳で豊国IIIに入門した。」となる。<

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浮世絵師の修業と名取(独り立ち)に関して

八十八の浮世絵師としての修業に関して考える前に、簡単に当時の一般的な絵師としての修業と独り立ちまでの経緯を、いくつかの文献からまとめた。

樋口二葉(浮き世絵師の修業時代 早稲田文学 第2期261 )は絵師になる過程を次のように記述している。「芸術観念などなかった浮世絵なので、職業的画工になろうという立場が主だった時代。二流どこ、三流どこでもかまわない、仕事が多いところが目安となって、手近な縁故を頼り入門していた。そこで少し筆が動いて上手になると飛び出して、一流の絵師のところへ入門するのが多かった。豊国や国芳のところで内弟子より中年者が多かったのもこの例だ。」 一流の絵師のところへ始めから入門する例とこのように転身する例があったが、「総じて中年からの弟子は描法の心得もあって、大抵は地馴しが出来ていて播種期に入っている」。そこの修業で「玩具絵や小本の切附物でも書けるまでになるまで進歩すると師匠もよく面倒見てくれる、兄弟子達も世話をやいてくれる。それから手腕がメキメキと伸びて立派な絵師になる」と述べている。また、飯島虚心(浮世絵師歌川列伝中巻 p195 畝傍書房 1941年)は歌川派の弟子への教育方法として、まず直線曲線円形楕円形などを教え、それから衣服器具などを描かせる。これができたら彩色を教え、それができてから人物を描かせる。人物が描けるようになって卒業となるが、この期間は3、4年ほどだ。卒業すると師名の一字を使用することが許され、これを名取りという、と述べている。樋口二葉(浮世絵と版画の研究p74-77)は、「師匠から名を許され、卵の殻から半分出かけた浮世絵師となるが、それが16歳、17歳で、師名の一字をもらって名披露もしないうちに自分勝手に描いた絵に署名は許されなかった」。名取りとなれば、「その画工は手腕も固まったのであるから、自分の外交の妙さえあれば大錦や立派な合本物は無理でも普通の物は版元から直接引き受けるのに遠慮はない」と述べているので自由に版元と交渉できたようだ。多くの仕事は基本的には版元が絵師に仕事を依頼するようだが、梅堂豊斎(役者絵の順序 浮世絵1巻1号 浮世絵社 1915)は豊国IIIが芝居小屋の情報を元に下絵を何種類か描き弟子が版元へ売り込みに行き仕事をもらってきたと述べている。修業期間を終えてようやく独り立ちしかけた絵師が、出版費用を自分が負担する入銀のかたちをとって錦絵を出してもらうこともあった(大久保純一 浮世絵出版論 吉川弘文館 2013年:もとは樋口二葉)と述べている。 

このような修業のプロセスだった時代に八十八が名取りをして、国周という浮世絵師になる過程を、これまでの文献から整理した。

小島鳥水著江戸末期の浮世絵は、「少年時代には日本橋通り二丁目の山形屋という糸店へ奉公にやられ、八十八が呼びにくいため「安どん」で使われていたが、あまり店の役に立たない代わりに、暇さえあれば番頭の似顔絵などを落書きして始末が悪いことから、四日市に隣春(ちかはる)といふ羽子板師の弟子に住み替えさせられ、主として数寄屋河岸の羽子板屋名林堂の仕事を手伝わされた。一説に十五歳で、一遊斎近信(俗称鳥山信二)の門に入り、勝信と称して羽子板の押絵に俳優似顔絵の原画を製していたという。人の勧めに従って十七歳の時、三代豊国に入門した」と述べている。

この記述に関して2点補足する。一つはここに出てくる「押絵」に関してだが、江戸の羽子板は押絵という製造方法を使っていた(笹間良彦 羽根羽子板 大江戸復元図鑑 p319 遊子館 2003年)。羽子板は桐の板で芝居俳優の半身、肖像、美人を主として描かれた。押絵という製造方法は、顔、手足、衣装などを図に応じて厚紙で作り白羽二重をはり墨で髪や目鼻を描き綿を入れて立体的にした絵だ。(江馬、西岡他、近世風俗事典 人物往来社 1966年)。

国周は羽子板絵師の元で押絵の原画を描いていたということだ。名林堂で描いた絵に関しては、樋口二葉が(樋口二葉 明治の浮世絵師 文献47)「まだ描き習いであるから拙いのもあるが、俳優の似顔が華やかで師匠の絵より問屋の評判よく、八十さん、八十さんと歓迎された」、「八十さんは、相応に賃銭の取れる職業を犠牲にして豊国IIIの門に入り。。。」と述べている。このとおりであれば、国周はすでに売れる絵を描いていたと言うことになる。八十八が羽子板の絵師として筆が立つようになって、一流の豊国III門人となったというこの流れは、樋口二葉が述べていた一般的な浮世絵師になる流れそのものだ。

国周は豊国IIIの元で、1852年、1853年に師匠豊国IIIの絵「国尽倭名誉」の揃物にひれ伏す兵士や玉に乗った鼎を描き、画家名は八十八と署名した。この揃物には名取りした門人が立ち姿のコマ絵を描いていて、俗称で絵を描いた人はほかにはいない。国周が画家名もなくて俗称八十八で描いたことは、先に述べた修業の過程から考えると異例の扱いに思える。それは、国周がすでに羽子板の絵を描ける実力があったからだろうか。とはいえ、それまで修業してきた他の弟子達と同じ立ち姿の絵は無理なので、豊国IIIは八十八に1852年、1853年にはひれ伏す兵士や玉の乗った鼎の絵をコマ絵で描かせたと私は理解した。

国周が何歳で、豊国IIIの門を叩いたのかに関しては、説が2つあるがまだ決定的な証拠が見つかっておらず、はっきりしていない。俗称で絵を描いたことは、何を意味するのか???